ノベルゲーム制作サークル「イトQソフト」です。 月に一度ぐらい更新します。
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※ネタバレあり
「Life is Strange」というゲームをプレイした。
URL:https://www.jp.square-enix.com/lis/
このゲームは、フランスのゲーム会社DONTNODによるアドベンチャーゲームであり、形式としてはクアンティック・ドリームの「Beyond Two Souls」や「Detroit: Become Human」のようなインタラクティブ・ムービー、つまりゲーム性を付与した映画のようなものである。
ストーリーはSFであり、アメリカ人の高校生である主人公が、ある日突然時間を巻き戻す能力を手に入れ、小さな田舎町で起こる恐ろしい事件の謎に迫っていくというものである。
特徴的なのは、この作品の根幹を構成するギミックである時間巻き戻しが、プレイ中基本的にいつでも発動可能で、いろんな会話やちょっとした行動が、納得行くまでなんどもやり直し可能と言う点だ。そして、細かな選択の積み重ねが、バタフライエフェクトのようにやがて大きなうねりとなり、運命が変わる様を体験できる。
SF史に残る(べき)ゲームたち:第17回『ライフ イズ ストレンジ』――時空を超えるソーシャル・ワーカー:IGN Japan
https://jp.ign.com/sf-game-history/29953/opinion/sf17
(最終アクセス2020/8/16)
内容については、上記の記事がかなり詳しい。ここに書かれているように、まさにこのゲームは”ストレンジ=系”を描いた作品である。自然、社会、人間と人間の関係が、カオスに絡み合い、ちょっとしたきっかけで大きく変化していく。「関係」を楽しむゲームと言ってもいいと思う。
で、このゲームをやっていて特に印象に残ったシーンがあった。それは、終盤の悪夢のシーンである。何度も時間を戻して出来事を操作した主人公マックスは、不条理に歪んだ世界に迷い込む。教室から突然人が消えたり、寮の廊下が無限に続いていたり、と思ったら、心象世界の中で、おかしくなった人から隠れるゲームが始まったり。あたかもマックスがこれまでさんざん時間を戻して現実を操作してきたことで、世界がバグってしまったかのような演出である。
色々感想を見ていると、このシーンには、やたら長いとか、いきなり難易度の高いアクションを要求されるとかいう意見が散見される。確かに、まるで映画を見ていたと思ったらいつのまにかメタルギア・ソリッドばりのステルスアクションを要求されていたといった感じなのである。
なのだが、その一連のシーンの中で、本当に感動したシーンがあった。それは、逆再生のシーンである。
このゲームでは、序盤に非常にユニークなオープニングシーンがある。それは、学校の廊下に出たマックスがイヤホンをつけるとオープニングテーマが流れ始め、さらにプレイヤーはマックスを操作して、いろんな生徒たちを見ながら、舞台となる学校のことや様々な人物たちの関係を知っていくというものである。(ついでにスタッフクレジットも挟まれる)
つまり操作可能なインタラクティブなオープニングである。
そして、終盤「悪夢」のシーンで、これと全く同じシーンが挿入される。ただし、マックス以外の時間が、全て逆に流れているのだ。
オープニングテーマは逆再生、歩いている生徒はみんな後ろ向きに歩き、話す言葉も逆再生なのでまったく聞き取れない。表示される文字も左右反転しているので全く読めない。そんな世界にいきなり放り込まれるのである。
これはかなり新鮮な体験だった。私は今まで、目の前のものあらゆる物の時間が逆に流れる世界に放り込まれたことなんてないし、3Dのゲームという臨場感も相まって、さらに「タイムリープもの」であるという物語性もあり、得も言えぬ感激を覚えたのである。このゲームはすごい、とこの瞬間に確信した。
まあそれだけの話である。で、なんでこんなに感動したんだろうと少し考えてみたのだが、多分、その時「見たことのないもの」を見たからなのだと思う。私にとって逆再生の世界というものは、見たことのない驚きの世界だったのである。
物語で感動するとき、それは本筋の上で積み重ねられた出来事だったり、共感できるキャラクターだったり、展開だったり、あるいはそれらの見せ方、つまり演出の妙だったり、いろんな要因が考えられると思うのだが、前例をなぞってよくある展開を積み重ねたり、キャラクターを練るだけでは、決して到達し得ない感動というものもあると思うのだ。観客に受け入れられ、かつ「見たことがないもの」を一瞬だけでも発明できれば、その物語は大きなうねりを持って、多くの、あるいは少数だが熱狂的な支持を集めるに違いない。もしかしたら歴史に残るだろう。例えば映画「パプリカ」の無生物のパレードのシーンや、小説「ジェノサイド」で進化した人類が話す二次元的言語というコンセプトは、目にした瞬間からずっと私の心を掴んで離さないのである。なんかとりとめの無い感じになったが、なんでも新規性は大事だよなっていう話である。
余談だが、ライフイズストレンジでは、ラストにすごい重大な選択肢がある。詳細は省くが、内容的にはいわゆるトロッコ問題、つまり、一人を犠牲にして大勢を救うか、あるいは大勢を犠牲にして一人を救うかを選ばされるのである。なので、どっちを選んでもどこか物悲しい感じで終わる。
(トロッコ問題についてはこのwikipediaの説明が詳しい。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B3%E5%95%8F%E9%A1%8C)
正解がない問いに真正面から取り組んだ、すごく良い終わり方だと思う。他のゲームだと、誰も犠牲にならない第三の選択肢とかがあるところかもしれないが、このライフイズストレンジにはそういうものは無い。
トロッコ問題と同じで、こういうのは考えることに意味があると思うのだ。トロッコ問題はトンチ問答ではない。ポイントを切り替えなければトロッコが脱線して皆助かるだとか、そういう話ではないのだ。
答えが出ない問いに直面し、それでもどちらか1つの未来を選んで先に進まなければならないとき、あなたはどちらを選ぶのか。それがライフイズストレンジである。
サークル様ホームページ:http://hommage.main.jp/blog/
国シリーズとは、作家KAZUKI氏の手による一連のノベルゲーム作品群であり、これまでに「みすずの国」「キリンの国」「雪子の国」「ハルカの国」の4作品が発表されている。
それぞれの作品は、世界観や設定、登場人物の一部を共有している。世界観についてものすごくざっくりかいつまんで説明すると、日本には天狗と呼ばれる超能力を使える人たちがいて、国を作っていたり通常人類と対立していたりする。そうした和製SFとも言える世界の中で、登場人物たちが冒険する一大ファンタジーエンターテイメントなのである。
……どうも私は説明下手なので、このように安っぽい紹介になってしまうのだが、このシリーズの物語に関しては多くのブログ記事やメディア等に既に紹介されているので、そちらを参照されたい。
私がここで語りたいのは、この作品の演出のことである。ちょうど先日、最新作「ハルカの国」を最後までプレイした。そこで色々と考えたことがあったので、備忘録的に書く。
「ハルカの国」は、明らかに他のノベルゲームとは違う感触がするのだが、その理由の一つは演出にあると思う。これは完全に勝手な思い込みかもしれないが、この作品はかなり映画的な演出論に基づいて作られているのではないかと感じるのである。
ノベルゲームは、一般的に背景、立ち絵、文章により画面を作る。そこに音を加え、要所ではスチルを表示するというのがオースドックスである。「ハルカの国」の画面も基本的にはそのフォーマットで構成されている。
例えば立ち絵の出し方に、この作品の一つの特徴がある。通常2人以上の登場人物が会話している場面の場合、その人物の立ち絵をまとめて全員分画面に出しておいて要所要所で表情だけ変えていくというのが、オーソドックスな演出である。少し気の利いたゲームだと、会話してる人物以外を暗くしたりして、誰がセリフを喋っているのかをわかりやすくしてあることもある。
だが、この「ハルカの国」で多用されている演出は、セリフを発している人物の立ち絵だけを画面の真ん中に配し、セリフの切り替わりに応じて立ち絵をどんどん入れ替えていくというものである。つまり、Aという人物とBという人物が会話しているときに、AのセリフのときはAの立ち絵だけを映し、BのセリフのときはBの立ち絵だけを映すという感じである。
「ハルカの国」の会話シーンはこの演出が多いのだが、思うにこれは、カメラを意識しているのではないだろうか。向かい合って会話する2人を、ふたつのカメラを切り替えながら撮るように、立ち絵を切り替えているのではないかと思うのである。まるで映画のカット割りのように。空間的な配置を考慮すると、ノベルゲームでよくあるような、立ち絵が横一列に並んだような配置は本来ありえない。横並びで会話はしないからである。横に並んで会話をするというのは、どちらかと言うと演劇的な演出である。つまりステージに立って、観客であるプレイヤーの方を向いて演技をするというふうに。
また、この作品はシーン、いや、シーケンス単位で構成されている。時間とか場所が大きく移動するときにアイキャッチが挟まれるのだが、そのアイキャッチとアイキャッチの間、これがひとつのシーケンスとなっている。そして、特徴的なのがこのひとつのシーケンス内でも、背景がバンバン切り替わるのである。立ち絵の切り替わりをカットとすると、背景の切り替わりがシーンだろうか。そしてそのシーンがいくつか束になって一連の出来事になったのがシーケンスとすると、カット>シーン>シーケンスという映画的な構造になっているように思うのである。
ノベルゲームは基本的に多少動きがあるからと言って背景を頻繁に切り替えたりはしない。背景は作画コストがかかるからである。だがこの作品からは、例えるなら「人物が部屋から縁側に出たのなら、縁側の背景にする。なぜならそういうふうに撮っているのだから」というような理念を感じるのである。
そして、その考え方はスチルにも現れていると思う。この作品では頻繁にスチル、つまり一枚絵が用いられているのだが、例えば動きのある場面のとき、ある瞬間のスチルが表示されて、すぐに次の瞬間のスチルが表示されたりする。まるでアニメーションである。アニメーションのように対象の動きを表現しようとしているのではないかと思う。そしてこのスチルがかなり多い。ノベルゲームの場合、小説のように動きは文章で記述し、プレイヤーの想像力に頼るしか無いところもあると思うのだが、この作品は動きを絵でちゃんと映してくれるのである。
「映像の原則」という、映像演出の技術書として有名な本がある。(著者は「機動戦士ガンダム」シリーズの監督として有名な富野由悠季監督)この本に繰り返し出てくる言葉として、「映像のダイナミズム」というのがある。視覚印象の緩急や強弱により生み出される映像ならではの意味性といった意味でこの言葉が使われているのだが、「ハルカの国」はまさにこのダイナミズムを、ノベルゲームという媒体で生み出そうという試みではないかと思う。
最後に、この「国シリーズ」は、なんというか、いちどプレイして、それから数年経つとふとした時にまた読みたくなる作品である。それはおそらく、舞台・物語・人物・サウンド・グラフィックといった、作品を構成する要素がすべて実感を持って作り込まれていて、その世界に対して郷愁のようなものを感じるからではないかと思う。